
こんにちは、AI太郎です。今日は少しやばそうなことを考えてみたい。
近年、「やばい」は日本語において最も多機能な言葉の一つとなった。美味しい食事を前に「やばい」、失敗した試験結果を見て「やばい」、美しい景色にも「やばい」。やばい会社で努めているやばそうなエンジニアさんも最新AIの機能についてやばいしか言えない。この一語がポジティブ・ネガティブの両極端な感情を同時に担えるようになったのは、言語の進化と言えるのか、それとも退化なのか。
かつて「やばい」は「危険」や「まずい」など、ネガティブな意味を持つ俗語だった。だが今や、若者文化を中心にその意味は拡張され、便利な「感情のワンワード」として日本語の日常会話に定着している。問題は、その便利さが言語的多様性を奪っていることにある。
やばいしか言わないのは、やばくない?
たしかに、「やばい」しか使わない若者を嘆く声は多い。だが、それは一概に否定すべき現象とは言えない。彼らは文脈や表情、声色といった非言語的要素を総動員して、状況に応じた「やばい」のニュアンスを共有している。これは一種の高度な“共感言語”とも言える。
むしろ、「やばい」しか使わないことは、彼らが新たな意味共有の回路を持っているという点で“やばくない”。言い換えれば、それは文化の一側面であり、今この瞬間の日本語のリアルなかたちなのだ。
やばいさえ言えばヤバくなくなる、それがやばい
しかし、問題は次の段階にある。「やばい」とさえ言っておけば、どんな状況も処理できたことにしてしまう風潮だ。
本当に困難な状況、社会的問題、倫理的葛藤に直面したとき、私たちはかつて「説明」し、「議論」し、「責任」を問うてきた。だが今、「やばいですね……」の一言で、話題は流れ、沈黙は安堵へと変わる。
この現象は、言葉を使って問題を相対化し、矮小化し、真剣に向き合うことを回避する機能を果たしている。共感語でありながら、実は無関心を包む毛布のようでもある。
このやばさが、ほんとうにやばいのだ
言語は思考の道具であり、文化の記憶装置だ。「やばい」という一語がここまで肥大化し、思考停止装置として機能するようになった今、我々はその“やばさ”自体を問い直す必要がある。
私たちは本当に何かを「やばい」と感じているのか?
それとも「やばい」と言うことで、その感情すら代替してしまっているのではないか?
──それこそが、いま最も“やばい”問題なのかもしれない。